2024年10月14日、セキセイインコのラナが虹の橋へ旅立った。
夜中にゴトッとなにかが落ちて、バタバタッとだれかが騒ぐ音がした。うつらうつらした小鳥が、止まり木から足を滑らすのはマレにあること。これまでにも何度かあった出来事なので、ミクかラナのどちらかが足を滑らせたのだと思い、そのまま眠ってしまった。
朝起きると、ラナが止まり木から落ちた姿勢で横たわっていた。抱きあげると数時間経ったと思われる温かさだった。
トレーナーをしている神戸のアマオケの練習日で、起床から1時間で家を出なければならない。いつもと違う脳と体で、必死に準備をして、家を出た。
電車のなかで携帯をチェックすると「コンマス、2ndトップ、2ndトップサイドが休みなので、ヨロシクお願いします」という連絡が来ていた。なんという日だろうか。
19時帰宅。ほったらかしでごめんね、と黄セキセイインコのミクに声をかけ、カゴに布をかけて寝かせる。
就寝時にカゴを自分の枕元に移動し、その脇にラナをそっと横たえる。布団にはいり、昨日の夜は生きていたのに・・と思う。
10/15(火)
朝、目がさめて、枕元に横たわったラナを見る。
ラナ、よく寝たから、そろそろ起きたら?
小鳥は死ぬと、目元が乾いてくぼんでくる。それを見るのは飼い主にとってショックが大きい。ああもうこの子は生き返らないんだ、と打ちのめされる。
ラナの眼は、生前からその機能を失って、水分が補充されずくぼんでいた。体調が悪化したとき、彼女の体が、眼を犠牲にして命をつなぐことを選んだからだ。だから魂がぬけて横たわっていても、ラナの姿はあまり変わらなかった。
ベンガラ染めの布にくるんで、居心地のよさそうな場所に置いていやる。
ほおずりする。体温はないが、毛のふわふわ感と香ばしい匂いは変わらない。人もそうだが、体臭は体に取り入れているもので決まると思う。ラナは6年間うちのご飯とお水で過ごしたので、いい匂いがする。
ラナだよ、とミクにそっと差し出すと、生前のようにカキカキと毛づくろいする。どうして起きないの?と私の顔を見る。変なの、とどこかへ飛んでゆく。
8年前に桜文鳥のミユが死んだときは、体の部分を引きちぎられたような痛みで、私は体の一部を失ったのだからもう生きていけない、と思った。
ラナの死は悲しいが、私の体の外でおきている。この8年で、自分の依存体質とたたかってきて、ずいぶん変わることができたと思う。
ラナがいないので、ミクがよく飛んでくる。手にとまる。これまでは忙しければ速やかにどいてもらったのだが、ミクの希望を優先する。何分か私の顔を見つめて安堵すると、その場所で毛づくろいをはじめる。何分か毛づくろいすると、気がすんでどこかへ飛んでゆく。
なかなかカゴに入らない。ラナがいた頃は、ラナをカゴに入れると、その後に続いてすんなり入った。
ラナ、どうしたの? 起きようよ。
10/16(水)
金木星のいい香りがする。
奈良からエリコさんがお花を持ってきてくれた。人を恐れていたラナが わたし以外に怖がらなかったのは、エリコさんと木津川市の獣医さんだけだ。
ラナは雛が欲しかったらしく、よく卵を産んでいた。子供が2人いるエリコさんのことはお腹を痛めた仲間と認めたようで、わたしには見せたがらなかった腫瘍のようなお尻も、エリコさんには進んで見せた。
鳥カゴの前でエリコさんと話していると、ミクがこちら側ににじりよってジッと聞いている。ラナのことを話してるんじゃないか?と思っているのか。
幽霊が見えてしまうエリコさんは、私にはわからない動物のメッセージを感じとることができる。
ラナは「幼鳥時のご飯がまずくて泣きながら食べていた、お母さんのご飯とお水はおいしくて幸せだった」と言っているらしい。そういえばよく、餌入れの端にとまってウットリとしていた。ミクが食べれなくて騒いでもどかず、長時間ウットリを楽しんでいた。
ラナの肉付きは、ブロイラーのようにぶよぶよしていた。ミクの肉付きはしまっていて、同じセキセイインコなのに全然違った。ラナは、粗悪な過栄養食を食べさせられていたんじゃないか、と感じていた。1歳年上のミクより短命だろうと思っていた。
ラナは2022年11月に体調をくずしてから、何度も死線をさまよった。明日の朝には生きていないだろう、と何度覚悟したことか。私のために生きていてくれたのだろうか。
でもエリコさんは、そうではないと言う。「お母さんのためじゃない、自分が生きたかったから生きた。」「これからはママの肩にとまって、どこへでも一緒におでかけできる。」
2018年11月にラナは生後9か月で我が家にきた。ミクの羽も美しいが、ラナの青のグラデーションがかかった色合いは本当に美しかった。実際ラナの羽の色をみて、言葉を失う人もいた。
何ヶ月ものあいだ彼女はカゴの隅でぶるぶる震えていた。人だけでなくミクも怖がった。この世界そのものが怖いようだった。夜中にとつぜん奇声を発することもあった。「みんな逃げて!」と叫んでいるような声だった。
震えているラナを見て、「ニンゲンは森のなかでこの子の祖先を見つけて、これを捕まえて都会で売ったら儲かる、と考えたにちがいない。」と思った。
ラナが私に恐る恐るとまってくれるようになるまで、2年以上かかった。
周囲をよく観察している子で、私に平気でとまるミクを遠巻きに見ていた。
ある日そんな彼女の眼が、きらりん!と光った。
「あの子にできて、わたしにできないハズはない!」
まなじりを決してばばばばっと私に向かって飛んでくると、腕にちょんととまった。
「やったわ!ついにやったわ!」
とまったというより、タッチした、という方が近い。すぐ遠くへ逃げていった。
ミクの求愛ソングを受け入れて交尾にいたるまでは、3年4カ月かかった。
逝ってしまう前日のラナ お外の風にウットリ
10/17(木)
朝ミクがラナを探している。家中を旋回して、その眼はラナを探している。そして、ラナがいないんだけど!と私につっかかる。
2023年の春になったとき、ラナは卵詰まりを起こした。初めての卵だった。木津川市の獣医さんが出してくれた。それから晩秋までにラナは34個の卵を産んだ。そして腹壁ヘルニアという病気になった。
獣医さんには、ラナの体に負荷をかけないためには、二羽のカゴを分けるしかない、と言われた。卵を産なければラナはもっと長生きしただろう。でも二羽が交尾したくて、ラナが卵を産みたいなら、そうさせてあげよう。と思った。
ラナは命を張って卵を産み、抱いていた。どの卵も小さくて無精卵だった。ラナの体で命ある卵を産むのは無理そうだったが、それでもラナはミクと交尾し卵を産みつづけた。何ヶ月も卵を抱きつづけたので、筋力がおとろえて飛べなくなった。
冬になり卵を産まなくなった。獣医さんによれば、腹壁ヘルニアで卵管がつまったのだろう、と。ラナの様子から冬は越せない、と思ったが、眼の機能を捨てて彼女は生きのびた。
2024年の春がきた。もう一度ラナと桜が見れるとは思っていなかった。飛べないのだから庭に出れるんじゃないか? それから毎日ラナと庭で過ごすようになった。
飼い鳥と庭で、太陽のひざしをうけ、風を感じ、空の雲を見る。それは夢のようなひとときで、この日々がいつまでも続くんじゃないか、と私は錯覚した。
老衰や病気で弱って死ぬ小鳥は、まず止まり木にとまれなって、床にいるようになる。その後ごはんを食べなり、水を飲まなくなる。食べなくなってもうダメだと覚悟してから死を迎えるまで、ほんの半日~数日だが、この期間がほんとうに辛い。
ラナはこの2年のあいだ、幾度となく私にその覚悟をさせたが、いつも奇跡的に持ち直した。2024年の春から秋までは小康状態を保っていた。しかし最後の時はいつかやってくる。その日がくるのが私は怖くてならなかった。
けれどラナは、私にその日を経験させることなく、逝ってしまった。
死の前日まで脚はしっかりと止まり木をつかみ、ごはんをバリバリ食べ、うんちをした。私が寝る前にカゴを覗いたときも、いつもと同じように反応した。「もーやめてよお母さん、わたし寝てるの! ちょっかい出さないで」
ラナのことを書いている時は、ラナはもう生きていないという現実を受け入れている。しかし日常生活に戻ると、ラナが生きていないことに対して、アレッ?と思ってしまう。
ラナの遺体はまだきれいで、お水とごはんと一緒に静かに窓辺に置いてある。
ラナ、どうしたの? そろそろ起きようよ、と思ってしまう。
これまで小鳥が死んだときは、早く土に還してあげようと翌々日には埋葬していた。しかし今回はなぜだか埋葬できない。家族の遺体を置いといてしまう人の気持ちを、初めて理解している。
今日の午後はラナの遺影も用意した。かわいらしいラナの写真立てができあがると、ああラナはもういないんだ、という現実が立ちあがり、おもわず写真立てをふせた。ラナの遺体を埋めれる日が来たら、この写真立てがラナの代わりになるに違いない。
庭の樹木がうつって、まるで空を飛んでるみたい
10/18(金)
朝のミク。いつものように鳴いている。びゅんびゅん飛び回ってラナを探すのはおさまった。あまり餌を食べず、鳴いたり喋ったりしなくなっていたので、少し心配していた。
おはようとラナの体にほおずりする。腐敗ではなく乾燥の方向へ行きそうだ。土に還す気分になったら埋葬しようと思う。
ミクに、ラナだよ、と見せる。そこにラナの魂は入っていないのが分かっているようだ。それでも少しカキカキする。そして私の顔をじっと見る。
ふと、ラナがいないと楽だな、と思った。寒くはないか、暑くはないか。ごはんは食べているか、うんちはしているか。カゴから出したときは、床を歩くしかできないので、今どこにいるか。いつも神経を張りつめていた。
ラナがいないと外の音がよく聞こえる。枝葉がこすれあう音。鳥の声。虫の音。ミクの羽づくろいの音。
「虹の橋をわたる」という言い回しがどこから来たのか、ググってみた。
スコットランドの愛犬をなくした飼い主が、書いた詩が元になっているらしい。ペットは虹の橋を渡ってしまうのではなく、虹の橋のたもとで飼い主を待っている、という内容。いくつかの訳も読んでみた。
ネットは、正しい情報よりフェイクのほうが多いと言われる。フェイクには、悪意から発せられたもの以外に、思い込みや勘違い、創作などもあるだろう。この詩とその言われも、ネットで広まっている通りの事実ではないかも。でもこの物語が私たちの心を慰めてくれるなら、それはそれでいいのではないか。