4歳5カ月のとき、隣家のおばさんから声がかかりました。「育休明けでバイオリン教室を始めます。手始めに我が子に教えるんだけど、一緒に習いませんか?」
ご縁あってお隣同士になった奥様が、音大でバイオリンを専攻されていたとは! 誘われるまで両親も知らなかっただろうと思います。
そのバイオリン教室は「スズキメソード 浜松第二支部 広沢教室」といいました。大学進学で大阪に来るまで、私は静岡県の浜松市に住んでいました。
スズキメソードは、ヴァイオリニスト鈴木鎮一氏によるバイオリンの指導法です。「才能教育」とも呼ばれています。子供の能力を伸ばす教育法として注目されてきました。鈴木鎮一先生が設立した「才能教育研究会」は、現在でも様々な活動をしています。
スズキメソードの特徴は耳コピー。10巻からなる教本にはお手本のCDがついていて、それを繰りかえし聴いて練習します。スズキメソードのバイオリン教室として認定されていなくても、教本は誰でも買えて使えます。
耳が鍛えられるメソッドである反面、眼で楽譜を読み取ることがおろそかになりがちです。スズキで育った子は楽譜が読めない、とも言われます。スズキの教本を用いていても、問題意識がある先生は読譜力もつくように教えます。
日本より海外での評価のほうが高く、帰国子女の生徒も多くがスズキの教本を持ってきます。京都南部は同志社国際や京都IUアカデミー、京田辺シュタイナー学校などがあり、わが教室の生徒さんたちも、一般的なバイオリン教室よりインターナショナル度が高いと思います。(注:先生は英語はからきしダメです。)
ビオラ用にハ音記号に編集しなおしたスズキメソードの教本を、ビオラの生徒が持ってくることもあります。日本語版はなく、英語版の白い表紙のものです。
私の母親がつけたノートが残っています。
♫レッスン初日
1.おじぎのおけいこ 右手右脇 弦にさわらぬよう
2.肩とアゴをはさんで支えるおけいこ 30数える
3.弓を動かす練習 上下 左右 垂直 各10回
4.手拍子の練習
12345-6
12341234
12休4
123-123-
昔の子供は、大人にやれと言われたら おとなしく従ったものですが、現代っ子にさせるには退屈そうな内容です。
♫2回目のレッスン
1.開放弦で
4分音符と2分音符が混在するリズム
4分音符と8分音符が混在するリズム
休符の入ったリズム
2.スケール
・弓の重さだけでひく、響きのある音
きらきらぼしの変奏Aを前提とした練習内容になっています。先生のコメントに、私は唸りました。4歳の子になんと本質的な指摘でしょう。ノートからは、鋭い視点をお持ちの先生だったことが伺えます。
♫3回目のレッスン
「きらきらぼし」
♫5回目のレッスン
「きらきらぼし」「Aドアの音階」「ちょうちょ」
♫6回目のレッスン
「きらきらぼし」「Aドアの音階」「ちょうちょ」「むすんでひらいて」
・すんだ指はすぐひっこめる。
・むだな指の使い方はしない。
どうやら私はあまり才能のある子供ではなかったようです。身体感覚の優れた子だったら注意されないだろうな、という指摘がみられます。先生の言葉づかいは具体的で、その言いまわしから察するに、的を得ていると思われます。このノートを見るまで、もっと適当に弾かされて、なんとなく上達して、進んでいたのかと思っていました。
早くからスケールが日々の練習に組みこまれているのも意外でした。基礎練習はあまり課されず、曲ばかり弾いていたような記憶があります。もしかしてそれは、私のあまりのやる気のなさに、曲中心のレッスンに変わっていったのかもしれません。
♫7回目のレッスン
「きらきらぼし」の変奏A
〇タカタカタッタ
✕タカタカタータ
きらきらぼし4回目なのに、スタッカート付きの8分音符をまだ注意されています。こんなにどんくさかったとは。まったく記憶にございません。
また母への宿題が毎回出されています。スズキメソードは、レッスン日以外は保護者さんが先生のかわりに、毎日の練習の監督をするメソッドなのです。「スズキメソード音楽教室」と認定された先生は、今でも厳密にやっているのかもしれません。
私の母は教育熱心な専業主婦でしたから、先生から課された宿題を忠実に行いました。小学校低学年くらいまで、母は毎日バイオリンを弾くわたしの横に張りついていました。
♫3カ月目
・右の二の腕が後ろへ行かないこと
・肩をつき出さない。ひっこめて支える
・首と肩でしっかり持つ
・首をぐらぐらさせない
不思議なのは、1台目が 1/4サイズだったことです。幼稚園も小学校もクラスでの背の高さは、いつも前から3番目くらいでした。どうやってバイオリンを安定させていたのでしょう。一体どうやって左指を置いていたのでしょう。いま6歳8カ月の生徒が2人いますが、2人とも 1/4はまだ持てません。
当時肩当ては、ゴム製の貝のデザインのものが(私の周りでは)主流でした。現在の主流はブリッジ型ですが、小さな生徒さんたちにはごつすぎるので、貝の肩当てをネットで探して買ってみました。
肩当てそのものの高さは良いのですが、顎当ての金具の下端に挟んで固定するので、楽器の幅が分厚くなってしまいます。小さな子たちの首には入りませんでした。
ブリッジ型の肩当ては、フルサイズになって初めて買い与えられました。これを付けるように、と言われて、やりにくく感じたことをおぼえています。当時の私は、ブリッジ型の肩当てがないほうが弾きやすかったわけです。肩当てなしの分数バイオリンで弾いている写真を見ても、普通に良いフォームで弾いています。
♫4カ月目
・右手首の山が高いと弓がかすれる
・移弦時の右肘の位置
・弓をおさえつけ、はなしてからひく
・その時々にふさわしい弓幅
・まちがわない
・がたがたしない
・きれいな音
先生の指摘は細かく厳しく、「きらきらぼし」「ちょうちょ」「こぎつね」は4カ月やっていました。1巻に1年ほど要したものの、2巻や3巻は半年で終えています。1巻をしっかりやっていれば、2~3巻はあまり難しくないのです。
3巻のブーレは発表会で弾いたのでしょうか、たくさんの書き込みがあります。
・タータタ タータタ(♩♫♩♫)の稽古
8分音符の弓幅は少なく
音を鳴らすまえに、左指を押さえる
・8分音符のスタッカート
アップの音をはっきり、テヌートかけて
移弦のとき走らない
・センテンスの終わりは、響かせておいて、少し待つ
・クレッシェンドはだんだん弓幅ひろげる
音程も、使う弓の場所も細かく直されています。なんという才能のない生徒でしょうか。
小野アンナ。やる気のない生徒だったようで、きれいです。
バイオリンを始めて2年後、6歳になると教本は4巻に入りました。4巻は少し難しく、4曲目のヴィヴァルディからシフトとビブラートが始まります。(現在のスズキではもう少し早く始まる)
4巻を1年ほどで終え、5巻から先は1冊半年で進んでゆきました。
当時スズキメソード浜松支部の上部組織は、愛知県にありました。月1回 豊橋市で合奏のレッスン、夏は蒲郡市での合宿に参加、発表会もスズキメソードの他支部の子供たちと合同です。
発表会は本当にゆううつでした。母から言われることは決まっていました。Aちゃんはもう〇巻に進んでる。Bちゃんはもう何々の曲をやっている。
そう言われてイヤだったことは憶えているのに、私には発表会でステージに立った記憶がありません。何を弾いたかの記憶もありません。大人になって忘れたのではなく、弾き終えた直後から無いのです。発表会の後できあがってきた写真を見ると、いつも記憶にない自分の姿がありました。
そうした集まりで母は、よく手帳を片手に聞き込みをしていました。「浜松にはいい先生がいない」「どこそこへ行けば〇〇という先生がいる」「△△先生はなんたら大学出身でどうのこうの」「1日〇時間くらい練習」(ノートに残っています。)
私があんまり上手にならない原因ははっきりしていて、本人にやる気がなかったのです。私はいやいやバイオリン教室に通っていました。
子供がバイオリンを弾いてくれない。子供が勉強してくれない。そういうときは、指導者や教育法の見直しではなく、本人を観察することでしか突破口は見つけられないのではないでしょうか。
ノートに書かれた内容を見れば、隣家の先生の指摘は鋭く、一番熱心に接してくれていることは明らかでした。
1・2・4・6巻はボロボロすぎて捨ててしまいました。
4歳半からくる日もくる日も休みなくバイオリンを弾いてきました。弾かなかった日は片手で数えられるくらいです。
しかし9歳で小児喘息を発症し、10歳になってから弾かない(弾けない)日が増えてきました。10巻に入ったころは、喘息の発作で頻繁に入院するようになり、学校生活もままならない状態でした。
喘息の発作は登校拒否の表れでした。学校へ行きたくない、と思うと発作が出ます。かように便利?な喘息の発作でした。
しかし困ったことに「8時だよ、全員集合!」で笑いすぎて救急車で運ばれたため、「8時だよ」は視聴禁止になってしまいました。本当に救急車にはよく乗ってました。
たしか9歳になるとテンチルドレンに応募できるとのことで、先生と母が相談していたようです。テンチルドレンとは、スズキメソードで育った子供たち10人を海外へ派遣しコンサートを行う企画で、スズキメソードが世界に広く知られるきっかけとなりました。しかし喘息持ちでの渡航はあきらかに無理でした。
1度だけ、バイオリンが弾きたい、と思ったことがあります。病院のベッドの上で、もう何日もバイオリンを弾いてないなと思ったとき、そんな感情がわきおこったのです。
退院して、練習せずレッスンに行きました。そのころは全く練習しないでレッスンに行くことが増えていました。いつ発作でレッスンをお休みするかわからない、重症化すればいつ復帰するかわからない。そんな生徒を見てくれるのは、隣家の先生だけでした。
私の演奏を聴いた先生は、驚いて嬉しそうに言いました。
「めぐみちゃん!今日は一体どうしたのかしら!?」
ああわかるんだ、と思いました。「バイオリンが弾きたい!」という内側からあふれる気持ちがあって弾いている、ということがわかるんだ、と思いました。
でも母にはわからないのでした。母であっても違う人間なんだから、わからないこともあるのだ。そう思えるようになるのに、長い長い年月を要しました。
よろよろと10巻を終え、次の曲の楽譜が用意されたところで、私の「習わされ事」は終わりました。療養所にはいり、浜北市の天竜養護学校へ転校することになったのです。バイオリンを「習わされ」て良かった、と思えるようになるには、そこから長い長い年月を要することになります。
10巻の途中でフルサイズのバイオリンが買い与えられたため、「その子」も連れてゆきました。療養所でクリスマス会など催し物があれば、バイオリンを披露していました。
3年の療養生活ののち、中学3年生から自宅へ戻りました。大学進学で自宅を離れ、社会人になってもずっと「その子」と一緒でした。
楽譜が正確に読めないということに気づき、友人の結婚式で依頼された曲は耳コピーで弾きました。アマオケに入ってさすがにこのままだとアカンと思い、楽典を勉強し、聴音のレッスンに通いました。
ビブラートや運弓がきちんとできていなくて、30歳を過ぎてから独力で直しました。できていなかったのは、子供時代にちゃんと教えてもらえなかったからだ、先生がよくなかったんだ、と思っていました。
今回ノートを見てビックリ! 隣家の先生の指導は悪くなかったのです。私にビブラートや運弓が身についていなかったのは、私が教えがいのない生徒だったからでした。
子供に忍耐強くレッスンするのを、自分では徳を積んでいるつもりだったのですが、それは違っていました。私は受けた恩を返していただけなのでした。